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あっ・・・。
すっかり、忘れてた。
こんなブログ、あったんだな。
生きる意味
ただ死ぬのが怖い、
それだけで生きてきた、
ようなものだ、俺は。
あのとき、死ぬのが怖いと思っていなければ死んでいたんだ。
で、まあいまこうやって生きているわけだ。
そんな
死ぬのが怖い
ただそれだけで生きている人生に
何の意味があるのだろうか?
生きるのに意味が必要なのか。
ただ生きているだけでいいではないか。
それもわかる。だが
それでも何か、そこに意味を見いだしたいのだ。
時は矢のように過ぎる
あれから一月が過ぎていた。前回書いてからだ。
すっかり忘れていた。
では。
極限状況
「極限状況」というのは確かヤスパースの言葉だったと思うが、それが正確に何を意味しているかは覚えていない。わたしの理解では、それが自分の意志や努力などによっては変えることのできない状況といった意味だったように思う。少なくともわたしはこの「極限状況」という言葉をそのような意味で使うことにする。
われわれは皆、ある極限状況に置かれている。いまこの時代に生まれてきたというのもそうだし、この国で生まれたというのもそうだ。
わたしは人間は自由であると思っている。人は自分がどのような人間であるかを選択できると思っている。しかしもちろんそれはこの極限状況においてである。人のそれぞれの人が持つ極限状況から逃れることはできない。生まれた国を出ることもできるだろう、産んでくれたあるいは育ててくれた両親を捨てることもできるだろう。だがどこそこの国で生まれたという事実、あの人たちが両親であるという事実、そういったものからはたとえそうしたいと思っても逃れることはできない。
人は人生を選ぶことができる。人は自分がどんな人間になりたいかを選ぶことができる。だが極限状況は選ぶことはできない。われわれの自由はそれに束縛された自由なのである。
たとえば、性格を変えられるという人もいれば、それは変えることはできないという人もいる。わたし個人としては持って生まれた性格というものはあるという直観がある。わたしからすればそのような性格も極限状況のひとつとなる。性格は変えられるが性質は変えられないという言いかたをする人もいるようだ。これは言葉の定義の問題である。が、実際のところ、性格が変えられるかどうかにはわたしの関心はない。わたしの関心は行為を選択するという人間の自由にある。
もしわたしの直感通り、性格が極限状況の一つであるならば、人の選択の幅は著しく狭められてしまうのではないだろうか。「わたしにはそうするしかなかった」という発言は、「そうする」ということ以外の選択肢はなかったということだ。このことが性格に起因することだとしたら、つまり極限状況のためだとしたら、選択の余地はなかった、そこに自由などなかったということになりはしないだろうか。
そうではないのだ、ともう一人のわたしが声をあげる。
「わたしにはそうするしかなかったのだ」という発言は、選択の余地はなかったということを意味しているのではなく、「そうする」ことを断固として選んだということを意味しているのだ。
嫌な予感
ちょっと気をゆるめたら、
ゆるめたというつもりはないのだが、
なんにせよ、
ずるずるとしていたら
また
書くのを忘れていた。
なんとまあ
意志の弱い俺であることよ。
まあもともと
ブログを書きたいわけではないので。
人生は生きる価値がある
昨日のつづき。
人生は生きるに値する。
それがわたしの話の前提である。
この前提が誤りであるなら、
生きることなどずぐにやめたってかまわないし、
他人の人生だって無にしたところで何の問題があろうか。
いますぐ自殺することに躊躇するならば、その人生には意味があるとみなすべきであろう。
この世界に許されないことがあるならば、
人生は生きるに値するものであるということでならねばならない。
まあそういったことだ。
ちょっと短いが、
今日はここまで。
あとに用事があるもので。